
じっさい、この写真は今日撮ったのではなく昨日の朝に撮ったのだけど、だいたい最近はこれくらいの時間から仕事にとりかかる。ぼくが完全リモート勤務に切り替わってからおよそ4年が過ぎた。その間オフィスで人と一緒に仕事をしたのは、両手で数えられるくらいしかない。それくらい、ぼくは人に直接会わずに仕事をしてきている。逆にそれまでは、かなり濃密に人と関わって、人に囲まれて仕事をしてきたから、自分でも不思議な感覚である。
2017年にAmazonに入社してからパンデミックまで、札幌で一位か二位の賃料と言われるオフィスビルの3フロアぶん、ひとフロアでもゆうに200人くらいは所属してるようなオフィスフロアで働いていた。日常的に仕事でやりとりをしたり世間話をするような相手は限られていたが、常に人の存在を五感のどこかで感じながら仕事をすることが当たり前だったし、そこそこの刺激があって退屈はしなかったように思う。
その前、Apple Storeで働いていた時は、30名ほどのスタッフとともに、多い日で100から200人くらいのお客様になんらかの形でインタラクションをとるポジションにいたから、とにかくずっと人と話したり、人の話を聞いたり、目線で合図を送ったり、店舗の状況を把握したり、とにかく常に思考がオンの状態であったように思う。一生の間に会う人の許容量をあの時に超えたのかもしれない、と自分では納得している。だから、いまはもう人に会わないで仕事をしてもよいよ、そう神様に促されたのかもしれない。
デスクワークあるあるで肩こりがひどく、もともと猫背であまり姿勢もよくない。リモート移行時に会社の経費で購入したポータブルモニターは、どこにでも持ち運べて便利ではあったのだけど、本格的な感じがしないしダサいので、ようやく数ヶ月前にそろそろまじめに就業環境をもう一度整え直そうかってことで、あらためていまの就業規則などを確認して購入できるものを探した。結果、32インチのLGのモニターとアームを買ってすこぶる快適になった。まず目線に合わせて自由にモニターの位置と角度を変えられるし、なにより複数のアプリケーションを開いて仕事をする身としては広いスクリーンは重宝する。

ここ一年くらいで紙媒体のよさを再認識している。ノートはデジタルとアナログが半々くらいのイメージ。細かいルールは設けずにその時のバイブスでどこに何を記録するかは変わってくる。ぼくは仕事の9割を英語でこなすのだけど、大事な思考は日本語のほうがだんぜんに捗るから、ノートには案外日本語の方が多く書いてある。特に生成AIや大規模言語モデル(LLM: Large Language Model)が日常業務においても存在感と重要度を増してきた直近3〜4四半期で感じる仕事の在りかたの変化として、壁打ちの相手としての彼ら(それら)に対し、「どんな問いをあたえるのか」という点がこれからの人間(Human)としての役割になっていくのだろうという実感だ。それはAIが人間の仕事を奪うだの、ホワイトカラーのブルシット・ジョブがどんどん明るみにでるだの、Twitter(つまりX)が8割をレイオフしても成り立っているだの、そういう個別の小さな事例をだけにフォーカスするとなんだか後ろ向きな印象しか与えないものの、すでにいろいろな場所で議論されているとおり、どうやって役割分業し、共存の道を探っていくのか、そのほうがよっぽど建設的な議論であろう。ソースがどこだったか忘れたけれど、GenAIとLLMの広がりを形容するパンチラインとして記憶に残っているのはこれだ。
「今一番クールな開発言語は、英語だ。」
収入を伸ばす副業としてプログラミングが随分長いあいだプッシュされているような気がする。その導入部分として「どの開発言語を選ぶべきか」ということを避けてはとおれない。macOS/iOSのエコシステムをためのSwiftか、ML/AIにも強く汎用性の高いPythonなのか、定番のJavaScriptか勢力を伸ばしてきているTypeScriptか。しかし、そういうちまちました選択肢ではなく、英語なのだ、と。これはそのツイートの主の母国語が英語であるがゆえだろうが、ようするに「母国語」ということだとぼくは理解している。より広くとらえれば、ぼくたちが普段つかう「ことば」自体の重要性が高くなってきていることを指している。
よく宮台氏は、「凸と凹(でことぼこ)」の話をする。喧嘩が弱いやつは強いやつに頼ればいい。代わりにそいつが頭がいいなら、腕っぷしの強い彼・彼女のために宿題を手伝ってやればいい。英語が得意な友達さえいれば自分がうまく喋れなくてもいろんな国の人と友達になることはできる。プログラミングが好きでしょうがないやつにはWebサイトでも業務の効率化でも個人的に頼めば喜んでやってくれるだろう。平たく言えば、ドラえもん的世界観(ことさら映画シリーズのほうの)である。そうやって社会は凸と凹をうまく均しながら機能してきたはずであるが、とくに「意識高い系」とでも揶揄される集団においては、子どもにはやれ英語もプログラミングも体操もダンスも塾もなんもかんも詰め込み、大人たちもリスキリングだのといって給与アップのための資格やら講座やらが怒涛のようにSNSを通じてレコメンドされてくる。一人でできることは限られている。だから分業して、専門性を高めて、でも互いに連帯して、凸と凹を埋め合わせていけばよい。まさしくその共通「言語」として他者に投げかける「問い」の質が以前にもまして求められることになってくるだろう。GenAIやLLMはその取っ掛かりとして、誰にでも開かれたプラットフォームとして発展していけばよいのになと願うし、そのような実践を仕事でもプライベートでもやっていきたいと思っている。